2013年07月18日

中国東北地方への旅(6)

共産党吉林省本部(旧関東軍司令部)は、
屋根がまったく日本の城の天守閣のようで、
とても特徴的なのですが、門前で正面から写真を撮ろうとしたら、
ガードの1人に「写真はだめ」と叫ばれました。
exclamation&question別に門の外から写真撮るくらいいいじゃん、減るもんじゃないのにねえ、
自分たちが建てたもんでもないくせに・・・

仕方なく人民大街に面してるサイドから写真撮ったら、
木に隠れて全然よく分かんないですねあせあせ(飛び散る汗)
DSCN3945.JPG

ここから人民大街を渡った東側に省政府(これも満州時代の建物)の
古いビル(新しい省政府の高層ビルは後方に建っている)、
この更に東側、バス停でいうと「清明街」の一角に、
当時の日本人が住んでいたらしき古い建物がいくつか残されていました。
でも「省政府管理建物、古いので危険建築」というステッカーが張られており、
すでに住民はかなり前に退去したようで、
ガラスもすべて割れていて、荒れるに任されていました。

これらも数年のうちにきっと立て壊されて、新しいビルが建つのかな、
と思って何枚か写真を撮りました。
DSCN3940.JPG

DSCN3941.JPG

これだけ見てきて思うのは、当時の日本政府はかなり長春にお金使ったなーということ。
皇宮博物館だけ見ると、そんなに感じないのですが、
それでも真横に御料列車と皇帝専用駅が整備され、専用の防空壕も掘ってある。
街の至る所に、東京にあるより規模が何倍も大きい
国会議事堂みたいな(より立派かも)建物銀行がバンバン建ってるんですもの。

よほど、満州の将来に希望を抱いていた、ということなんでしょうね。
ハードをこれだけしっかりしたということは、ソフト面(人材)も
選りすぐって送ってたはずです。

皇宮で見た、今は「軍国主義日本への協力者」という
汚名のレッテルを張られている中国人の役人や軍人も、
実はすごく有能な人たちだったに違いなく。
何人かの専門知識(日本の海軍士官学校に留学した海軍士官など)
を持っていた満州国軍の中国人は、その後の中華民国政府にも徴用されたようです。

日本も、明治政府という新しい国を自力で建てたものの、
当時の尊王派が列強から武器を購入したことも勝因のひとつなのは否めないわけで。
封建制度から立憲君主制度へのプロセスを、アジアで先んじてやってのけた日本、
その横に作った満州国でも同じことが出来るはず、と思った日本人、中国人、欧米人
もいた、と想像するに難くない。

当時のそんな人々にとって、満州国は自分なりに正義だったはず。
それが「正しい側に着く」という正義だったかどうかは、歴史が後付けしたわけです。

溥儀のイギリス人家庭教師だったジョンストンも日本の明治維新に注目していた一人。
のちに、溥儀が日本の庇護に入る根回しをしたそうです。

彼の書いた「紫禁城の黄昏」を読んでいますが、
中華民国設立後の数年間は本当に混乱していたんだと分かります。
共和国になりながら、清国皇帝が紫禁城に居ることを許されている不可解な時期。

「人民の意思により、専制君主国家から共和国になった、と
民国政府は言っているが、実際、共和国がどんなものか知っているもの
など人口の数パーセントしかいないのだ。むしろ大清国皇帝に
シンパシーを感じている人のほうが、まだ圧倒的に多かった」
と彼は書いています。

彼が溥儀の家庭教師だった、という事実を差し引いても、
「こんなに人口の多い国(かつ大多数が文盲)で、共和国制への移行が、
″人民大多数の意志″によってなされたとは信じがたい」
という指摘は正しいと思います。

溥儀は建国のご先祖様への負い目も感じており、満州族による国の復興を誓っていた。
それを助けてくれると言ってくれた日本になびいたのも無理はない、のかなと。
結局、関東軍のことは最後まで信じられなかったようですが。


posted by Nico at 00:28| 北京 | Comment(0) | 北京以外の中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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